
豊田昭博
私は1950年(昭和25年)に6人兄弟の末っ子として、この世に誕生いたしました。父は本業の農業しながら近くの木工工場に勤務していました。父はよく働く人で正月でも休まず働く姿を見て育ち、私も、父について行き、よく百姓を手伝ったものでございます。私は「寒い、熱い」と言いません。これには訳がございます。子供の頃、イグサ(畳表の原料)を作っておりました。これを作るのはかなり厳しく、夜なべをして土間で苗をこしらえ、翌朝、牛さえ飛び出すような冷たい水の中に植えていきます。また、刈り取りは七月の暑い炎天下の作業でございました。夜は夜でカーバイトのカンテラで遅くまで働き、床につくと死んだように寝たものです。就職して、どんなに、しんどい仕事でもこれ以上の過酷な仕事は経験しませんでした。これが結果的に良かった。どのような仕事をしても楽で面白く働く事ができました。
私が小学校に入る以前から「商い以上にいいものはない」と言うのが父の口癖で、今思えば、父自身が商人(あきんど)になりたかったのではないかと思われます。父は豊田家の長男として生まれ農業である家を継ぐ意外に方法が無かったようで、自分ができなかった夢を子供である私たちに毎日言い聞かせていたのだと思います。そのような環境で育った私は大人になったら商人(あきんど)になって両親を楽にさせたいと決意していました。
私は10歳(小学4年生)の時に初めて近くの池(この池は大蛇が出ると噂されていて恐かった)で蓮根を掘り隣町で安く売った。これは、おもしろいように売れ学校の勉強よりも売ったり買ったりする商いのほうがずっと面白く感じられ、両親に楽をして頂こうと益々商いに夢中になりました。その頃の様子は今から思うと考えられないような貧乏な生活をしていた。たまに米の飯を食べた時に兄達は「米のご飯は甘いのぉ」米だけのご飯であれば、おかずが無くても美味しいと言いながら食べていた記憶がございます。またその頃の母がいつも言っていました「次の世に天国、地獄があるのではなく、この世に天国と地獄があります。おまえの心がけしだいでどうにでもなりますよ」。昔から親孝行したい時に親はなしと言いますが、父は私が学校を卒業した年に肝硬変で亡くなり葬式をすませた私は、店を持つ気で大阪にやって来ました。
1975年(昭和50年)に10歳の時に決意した思いをついて実現することができました。その会社名がスタンダードモーターズ(後にひまわりコーポレーションと変更いたしました)です。自動車業界のスタンダードを創るというのが社名の由来です。私も血気盛んでこの業界は俺が担って行くという想いが強くありました。開業資金は115万円しかなく、開店した時は展示車はたったの3台でした。看板もない、電気もない、水道もない、電話もない、トイレもないというありさまで、今から思うとよく商いが出来たものだと思います。水道にいたっては、2年間以上ありませんでした。朝一番の仕事は近くのガソリンスタンドでドラム缶2本分の水をもらいに行く事でした。その水も午後には錆び、ふくタオルは赤茶びてきました。また、初めてのお客様からご注文を頂く時に左手に懐中電灯を持って右手で注文書を書き、お客様はとても不安だったに違いありません。こんな状態でよく買って下さったものだ。しかし当時のことは、ちっとも苦労とは思っていません。オープンし月末までにたった一人のお客様に軽自動車をなんとか買って頂く事ができ、4月の売上は8万円で、その中から5万円の家賃を支払いなんとかなりました。クルマの内装、外装、エンジンルームはピカピカにしてお客様を待ちました。ご来店のお客様はクルマを見られてあまりにも綺麗さにビックリされて、今から思えば、それが売れる原因の一つになった気がいたします。親孝行したい一念で始めた商いではありますが、子供の頃に父より度々聞かされた「商い以上にいいものはない」これが私の創業の原点でございます。
社長 豊田昭博とポリシー
豊田昭博プロフィール
豊田講演録
こだわりをもつのが商い
商人道ルネッサンス
牟田 学のことば